牧師休暇のためにお祈りをありがとうございました。今回は、月曜日から木曜日の朝まで、北九州で一人で暮らしている母と、ゆっくり時間を過ごしたり、大学時代の友人と会ったりする事が出来感謝でした。
また、火曜日に、偶然、戸畑高峰教会の牧師婦人と小倉駅でばったり会って、ぜひ、教会に来て欲しいということになり、次の日に、戸畑高峰教会の牧師館をお訪ねして、良き交わりと祈りの時が与えられました。
故郷に帰って、いつも感じることは、ここでも、私や山形南部教会のために祈られているということです。
また、アウトリーチで来られたオンヌリ教会のメンバーが、40日間山形南部教会のために祈りますとメールがありました。祈りは、教会の力です。その愛の祈りに駆り立てられて、1年を歩ませていただきたいと思います。
今年の年間聖句は、コロサイ3:14です。ご一緒に読んでみましょう。
「愛は、すべてを完成させるきずなです。」
元旦礼拝と、新年礼拝でこの御言葉から主の御声を聞かせていただきました。愛を身に着けること、また、神様との交わりと、人との交わりを大切にして、愛のきずなによってしっかりと結び合わされていくことを一年の目標として掲げました。
「愛は、すべてを完成させるきずなです。」
愛のきずなに結ばれて、素晴らしい一年を歩ませていただきましょう。
今年は、「愛は、すべてを完成させるきずなです。」という御言葉が与えられましたので、1月は、キリストの愛に生きるために具体的な御言葉から、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。
今日の中心の御言葉は、13~14aです。
「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」
今日の説教題は、「愛に駆り立てられて」ですが、これを書いたパウロの生き方は、まさにこのような生き方でした。
そして、わたしたちも「キリストの愛がわたしを駆り立てている。」そのような生き方をさせていただくことができればどんなに素晴らしいだろうかと思わされます。
Ⅱコリント5:1~10で、パウロは全ての人が、最後には、キリストの裁きの座につかされることを語りました。パウロは、人生の最後に、キリストの裁きの座に立たなければならないことを、いつも心の中に思いながら、その日一日一日を、主から与えられた大切に生きたのです。
パウロは、主の再臨という、人生のゴールをしっかりと見据えて人生を歩んでいましたが、今日読んでいただいた聖書の箇所には、その動機について3つのことが書かれています。
(1)神を畏れる心
11~12節
「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。」
パウロが、クリスチャンとして命がけで生きた一番目の動機は、主に対する畏れです。
これは、私たちが、人や出来事に対して恐れる「恐れ」ではありません。
1節の「主に対する畏れ」と書かれている畏れという字を見ていただけると良く分かると思いますが、恐怖心で恐れるという字ではありません。畏敬の畏という言葉か使われています。
パウロは、神様への畏敬の気持ち、敬虔な怖れについて語っているのです。
旧約聖書では、この神様のきよさへの畏敬の気持ちが、何度も語られています。
oヨブ28:28(P811)
「そして、人間に言われた。「主を畏れ敬うこと、それが知恵/悪を遠ざけること、それが分別。」」
o申命記10:12~13(P297)
「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」
o箴言1:7(P990)
「主を畏れることは知恵の初め。」
これらの言葉は、どの言葉も、聖なる神様への畏敬の念を現しているのです。
それらの神様に対する畏敬の念が、パウロを正しい道へと導いたのです。
それは、パウロだけではありません。聖なる神様への畏れがなければ、人は正しく生きることは出来ないのです。
「主を畏れることは知恵の初め。」という箴言1:7の御言葉を読むたびに、わたしの母校、基督教独立学園高等学校のことを思い出します。
昨年の11月に、基督教独立学園の同窓会がありました。300人近くの卒業生が集まり、懐かしい時を過ごしました。
その独立学園の新しく出来た、講堂の講壇の正面に、「神を畏れて、人を恐れず」と、いう内村鑑三の書が掲げられていました。
そして、内村鑑三は、この言葉のとおり、人を恐れずに、神様を畏れ敬った人でした。
明治24年1月9日のことです。内村鑑三の務めていた、第一高等中学(現在の東京大学教育学部)では、教育勅語(日本の教育はこのようにするという、天皇陛下のお言葉)の奉読式が行われました。
倫理教室の正面に、天皇の写真(ご真影)が掲げられ、教頭が教育勅語を奉読しました。その後、教師が順番に前に出て行って教育勅語に最敬礼をするのです。教師達は、次々に出て行って、頭をふかぶかと下げました。そして、ついに内村鑑三の順番になりました。キリスト教徒の先生というので、内村鑑三は、生徒たちに人気がありました。その生徒の視線を感じながら、立ち上がりました。
その時に、一つの御言葉が心に響いてきました。イザヤ書53章7節
「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」
イエス様は、小羊のように、すべての者の罪を背負って十字架につけられた。罪深いこのわたしのためにも、死んでくださったのだ。わたしはキリストのために死ななければならない。イエス様のために死にたいと思ったのです。
内村鑑三は、定位置に付くと、正面を見ました。そこには、明治天皇のご真影がありました。その前の机の上に、桐の箱に入った教育勅語がありました。しかし、キリストを信じている内村はこれを拝むわけにはいきません。
内村鑑三は、日本を愛し、天皇を愛していました。しかし、天皇を神として拝むことはできません。これを拝むことは偶像礼拝をすることになる。そう考えた内村は、明治天皇の写真を見ると、軽く目礼をして、自分の席に帰ったのです。
その時です。教頭の顔が、ガラッと変わりました。
後で、呼び出され、「校長と相談して、君の処遇を決める。帰りなさい。」そして、明治24年1月に、「不敬事件」として、東京大学教育学部教師を辞職させられたのです。このことは、マスコミにも取り上げられ、社会的な問題になりました。
それでも、最後まで内村鑑三は、人を恐れず、神を畏れ敬って信仰の道を全うしたのです。
「神を畏れて、人を恐れず」私たちも、人を恐れず、神様だけを畏れ敬う信仰生活をさせていただきたいと思います。
神様は、全てを造られ、支配しておられる全知全能のお方です。そして、独り子をさえ惜しまずに私達のことを愛しておられるお方です。
このお方の愛をいただき、このお方に従っていくことこそが、すべての生活における祝福の秘訣です。
人を恐れる生き方ではなく、神様だけを畏れ敬い、神様の知恵をいただいて、祝福の中を歩ませていただきましょう。
(2)正気でないほどキリスト者に徹すること
13節
「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。」
よく、一つのことに熱心な人のことを、何とかバカと言います。将棋に熱心な人は将棋バカだとか、野球に熱心な人は「あの人は野球バカだから」と言う言い方をします。
そういう言い方で言うならば、パウロは、熱心に福音を伝えるキリストバカだったのです。そして、そう言われることはパウロにとって決して嫌なことではなく、喜びとしていたのです。
パウロが、伝道をする姿は、コリントの人にとって熱心さの故に「正気でない」ように思われたのです。それは、今回だけではありませんでした。
使徒言行録26:24(P267)で、フェストゥスにこう言われています。
「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
それは、パウロだけではありません。イエス様御自身もそのような誤解を受けているのです。
マルコ3:21(P66)には、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」と書かれています。
イエス様御自身が、気が変だと言われるほどに、神に仕え、人に仕えておられたのです。
私たちも、「正気ではない」「頭がおかしい」「気が変になっている」と言われるほどに熱心に福音を宣べ伝える者でありたいと思います。
ウィリアム・ブースは救世軍を創設した人ですが、彼が世界伝道旅行に出かけた時のことです。ある港で、ウィリアム・ブース大将が出向しようとした時に、大勢の救世軍の関係者たちが、タンバリンを鳴らしながら、大きな声で賛美をしながら、彼を見送っていました。
すると、そこにキプリングという気むずかし屋の伝道者が乗っていて、ウィリアム・ブースに「わたしはあんなのは大嫌いです。」と、軽蔑して言ったそうです。
すると、ウィリアム・ブースは、「お若い人よ。もし、さかだちして足でタンバリンを鳴らせば、キリストのために一人の魂が勝ち取ることが出来るというのだったら、わたしは、喜んでその芸当を身につけますな。」と答えたというのです。
本当に熱心な人は、世間から、何と言われようと、バカにされようと気にしません。
私たちが、熱心になればなるほど、キリストに熱心に仕えれば仕えるほど、世間の人々は、私たちを、正気ではないとバカにするに違いありません。
初代教会の人たちが、キリスト者と呼ばれるようになったことが、使徒言行録11:26に書かれています。(P236)
「見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」
どうして、この時からアンティオキアと呼ばれるようになったのでしょうか。それは、使徒たちがあまりにも熱心に、キリストについて伝道するので、それをバカにして、キリスト野郎というような言葉で使われたのですが、そのことを使徒たちは自分達の喜びとして、キリスト者、クリスチャンという言葉を使うようになったりのです。
私たちも、イエス様や、パウロのように、「キリスト野郎」とバカにされることを喜びにしましょう。そして、熱心に、喜んで、神様に仕え、人に仕えさせていただきましょう。
(3)キリストの愛に駆り立てられて
14~15節
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」パウロが伝道者としての生涯を貫き通した3番目の動機は、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている。」ということでした。
それは、パウロから出た愛ではなく、キリストが十字架で現してくださった愛です。イエス・キリストは全ての人たちの罪のために、死んでくださったのです。
神の子であるイエス様が、わたしの罪のために十字架で命を捨ててくださるほどに、わたしのことを愛していてくださる。パウロは、その愛を知った時に、その愛に駆り立てられて、キリストの愛を伝えずにはおられなかったのです。
私たちもパウロが受けた愛と、同じ愛をいただいているのです。その愛に駆り立てられて、福音を宣べ伝えさせていただきましょう。
今年も2月14日(日)三浦綾子読書会特別礼拝が行われ、森下辰衛先生が、礼拝の御用をしてくださいます。森下先生は、三浦綾子の作品を通して、福音を伝えておられます。
クリスチャンの作家、三浦綾子さんは、敗戦当時、小学校の教師でしたが、敗戦を迎えたとき、今まで自分の立っていた土台がくずれてしまい、心に空しさを覚えていました。魂だけではなく、肉体もむしばまれて肺結核を患い、結核療養所に入ることになってしまったのです。
その時、幼なじみの前川正という、クリスチャンで彼女と同じように胸を病んでいた北大医学生が、彼女の所にやってきて、一生懸命に福音を伝えました。
ところが、三浦綾子さんは、気が乗らずに、相手にしませんでした。
ある時、前川さんは、何度言っても受け付けようとしない彼女の姿を見て、彼は目に一杯涙をためて、大きくため息をつきました。
そして、そばにあった小石を拾って、自分の足を激しくたたいたのです。やがて皮膚がまっ赤になり血が流れ始めました。
「やめてください。どうしてそんなことをするのですか?」と必死に綾子さんが止めると、「信仰の薄い、わたしには、どうしても綾子さんを救うことが出来ない。この不甲斐ないわたしを自分で罰するのです。」と言って泣いたのです。
その姿を見た、三浦綾子さんは大変感動して、その日から、聖書を読み始め、求道をし、素晴らしいクリスチャン作家として用いられるようになったのです。
そして、前川さんは、肺結核のために天に召されてしまうのですが、その時も
「綾ちゃん、わたしが死んでしまうことを悲しまないでください。わたしは、天国に行くのです。綾ちゃんもイエス・キリストを信じて、これからの人生を歩んでいってください。」と言い残して天に召されたそうです。
前川正さんは、どうしてそんなにまでして、福音を伝えたのでしょうか。
それが、今日の御言葉です。
14節前半
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」
キリストの愛が、戦後の大変な空しさの中で苦しんでいた自分を救ってくれた。そのキリストの愛を思うと、その愛を伝えずにはおられない。そのキリストの愛が彼を駆り立てたのです。
パウロを駆り立てたのは、キリストの愛でした。
イエス様はわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。命を与えて下さるほどに私たちの事を愛してくださっているのです。その愛を覚え、その愛に駆り立てられて、この素晴らしい福音を一人でも多くの人たちに伝えさせていただきましょう。
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